④2日目後半 aqua ball〜Bear’s

執筆期間 22.4.7-22.12.28(改稿23.4.12)

 

Side.SIZUKA

──昔話と無駄話。

 

“ギターの練習の練習”をしていた頃を思い出す。努力する努力みたいなことだ。当時教えてもらった人からは「早いところ一日一回は楽器に触らないと気が済まない自分に成ることだ」と言われた。コツなどないそうだ。
そのとき通った教室は会話が続かなくて一瞬で辞めたけれど、ギターを弾くのは止めていない。職も人間関係も投げ打ってひとり楽器を抱えるぼくの場合“止められなかった”と表現したほうがいい。いくらしても足りない努力の言い訳を、伸びない身長と同列に言い訳してしまったことを思い出していた。

「大丈夫ですか」

壁際で影のように立っていたひとから声をかけられた。目も合わせられない。医者のような名札が見えた気がする。スタッフのひとかと思ったけど、幾何学模様が目印のaqua ballの円盤が手荷物からちらりと見えて、慌てて逃げてきてしまった。
初対面の観客同士で当日のライブについて話すのはいちばん苦手だ。刺激を感受しながら咄嗟にことばを繰り出さないといけない。ぼくはからっぽの状態なのに、ことばが混沌から精錬されていないのに、大層感激したふりをしないといけない。すぐそこにミュージシャンたちがいるのに、彼らの音楽に対して不誠実な嘘っぱちを口にしようとすると、涙が出てくる。彼らには知る由もなく届くはずがなくてもだ。それが心配してくれた他人を無視していい理由にはならないけれども。

音楽に関しても変更やアドリブをきかせたり、即興というのがどうしてもできない。柔軟にとか臨機応変にとか何度も言われてきたけど、犬が猫にはなれないのとおなじだ。
演奏には本人の性格が表れるか、もしくはフィクションとしての性格が表現される。後者はアートだと思う。ぼくには当然適性がない。また、他人の演奏を観たり聴いたりしてもほんとうの性格なんかわかったためしがない。

手洗いで顔を洗った。人の多さではなく密度に圧倒され、腹部に緊張をおぼえている。
しかし昔のことを考えれば、これでもぼくはおとなになっている。言葉より先に手や足が出るのを問題視されたからだ。自分のこころはコントロールできる。起きていてほしいほうの神経を尖らせ、暴発したらヤバいほうの精神を寝かしつける。ぼくは選択的にそれをやってのけ、そして嘘をつかない。
“え? こころはコントロールできないから体裁としての言動を変化させるんだろ?”と、むかし弟は言った。ぼくからすれば文句なく器用な受け答えだけれど、じつはぼくも違う意味で器用なのかもしれないと思った。

五十鈴は小西さんたちと連れ立って話をしている。すっかり意気投合してたのしそうだった。合流するともなく微妙な距離感で立ち尽くしていると、東さんが手を振っていた。
いよいよあと三組ですね。僕はずっと立っとれるか分からんもんで、こういうラウンジがあるとうたてえですわ。
独り言のように、必ずしも返答を求めてはいないような調子の声色だった。

うたてえ、とはぼくらのおばあちゃん世代の多用することばで、ありがたいという意味だ。ほかの地方では意味が真逆だから注意するように、とむかしおばあちゃんに習った気がする。言葉遣いからして東さんはベタベタの名古屋人だが、尾張のひともこの言葉を常用するのかは分からない。

僕は連れ出してくれる友人がおらんとからっきしの出不精でして。ひたすら慣れた道の往復を繰り返すのでは毎日がだんだん狭ぁなっていきます。同じ道を通る空気の流れはわかるようになりますが、新しい可能性に気付けるのは他人とかかわる即興のおかげで、この歳やなくとも得難いもんです」

若者たちを見遣りながらサックスのソリストらしい表現でまとめて「そろそろみたいです」と首を伸ばす。
うたてえ、うたてえ。なつかしい響きだった。この場で聞くはずのない馴染みの言葉がふと近くに寄り添ってくれて、ぼくのほうこそお礼を言いたかった。結局ぼくはこのあと、このひとたちと一言も話さなかったけど。

 

【aqua ball】

彼らは、特に彼女はどこまでもクールだった。素っ気なさも含めて聴衆に好まれているんだと、少なくともぼくにはそう見えた。
性格や感情は言動からはわからない。表面上ひとはどんな時でも社会性を発揮して、ある程度演技性の言動をするのが当たり前だから。たとえどんなみさかいのない傍若無人でも状況を読んで振る舞っていると思う。
でも、確固たるそのひとの自己から発せられる光のようなものがつよくて、表層と深層の境界を感じさせない存在がたまにいる。いわゆる表裏のない、小西さんのような根明なタイプだったり、あのギタリストのような──。

最初から書こう。かれらを通したぼくのことじゃなく、ぼくを通したかれらの音楽について。

aqua ballはライブでのアレンジに定評のあるバンドだ。メンバー編成はライブではおなじみのサポーター二人を迎えるらしく、安定感は申し分ない。今回はどのような魅せ方をしてくれるのかと楽しげに語る様子のひとたちもいた。フロアを見渡しても、abのファンらしきひとはやっぱり多い印象だ。
その場に居たものだけが手に入れられる雪の結晶みたいに、すぐ溶けて消えるけれど、手袋もせずに外気に差し出した手の突き刺さるような冷たさも気にならない。そんなかんじだった。

遠くから見てもキーボード周りが城みたいになっているのがわかる。おれらの周りに鍵盤奏者おったっけなあ。以前弟と交わした会話。パートが足りないという話をこの前したけど、たしかにきっと可能性がぐんと広がるだろう。
はじめの二曲は空に響く福音のような清々しさだった。移り変わる空気の濃さや異国感をもって彼ら独自の世界が展開されてゆく。前曲のメロディラインを次曲で引き継ぐ瞬間に、彼らの構築するストーリーの流れを感じて、好きだと思った。五十鈴が言うには、彼らはこうして楽曲間の物語を関連づける。

「こんばんは、aqua ballです」

掴みは上々というように、眼鏡をかけたドラムスの男性が感じの良い笑みをうかべて口火を切る。歌声を聴いた後だからわかってはいたけど、とても聴き取りやすい。

「じゃあ次、『echo』」

無心でただ奏でられる透明な音楽。
彼らは多くを語らず、実力で知名度を上げている。メディアで彼らの経歴とともに取り上げられることの多い『echo』は代表曲と言える。予備校のテレビCMに起用されていて、オリジナルのサビ部分は何度も聴いたことがあった。
ライブでは、だからといって聴覚が散漫になることはない。ツインギターの顔触れにさっきからドキドキしていた。
aqua ballには一度として同じライブをしない、という、ポリシーのような暗黙の了解があるらしい。それはライブでだけはパート分を生演奏する、という姿勢とも繋がって、唯一無二の瞬間をかたちづくる。

盛大な拍手が巻き起こり、そのままメンバー紹介へと移る。
サポートメンバーの一人が所属する北斗星も、メジャーシーンで活躍するロックバンドだ。からりとした空気感でぶつかる音が心地良くて時々聴きたくなる。aqua ballを検索すると関連情報としてきょうだいである彼らも音楽活動をしているのがわかるが、実際並んでいるのを見るのは初めてだった。血が繋がっているといわれれば成程という気もする。ぼく自身にも身に覚えがあった。
全員の動きを注視できるたくさんの目玉があればいいのにと思う。ぼくは、特別な『echo』を聴かせてくれたGretschの彼に注目していた。きょうだいのバンドに手を貸せるような、臨機応変な演奏や立ち振る舞いができるソロギタリスト、憧れないわけがない。
一方、ステージ上ではユキ、と声を掛けられた寡黙な彼女が言葉を繋ぐ。

「本気で弾くから、ここからもよろしくね」

次の曲紹介とあいさつを聞きながら、今しがた告げられた〈そうせつ〉と〈とうげんきょう〉の字面を頭の中で思い浮かべようとする。不思議なことに実際の曲を聴けばその響きと曲名が自然に合致していった。

シンセがまぶしい……。
視覚的な刺激はないのに目がしぱしぱする。ぼくらの持っている音のなかにはない響きだから馴染みのなさを感じるのだが、観客の熱狂にいつもは取り残されがちなぼくも、この場に無心の肯定を捧げている。後で聞いたところによれば二曲ともアレンジ曲と新曲だったらしい。だからぼくも除け者にならなかったわけだ。

『凍幻境』って有名な曲なのかな。毎回こうやってクラップするのかな、と思ったが、前方の観客の手の動き、挙手のタイミング、雰囲気からしてそうじゃないらしい。
でもさすがというべきで、観客が乗りやすい曲づくりがなされている。ぼくも精一杯に手を打つ。
フロアの盛り上がりがまっすぐ進もうとする時の流れをジグザグにしていた。錯覚だ。

「『終の駅』、これ知ってる」

想像上のナイトトレインが滑らかに暗闇の世界を進みだす。街灯や月明かりの下に躍り出てさっと視界が明るくなる瞬間が来るように、清く澄んだ高音が先へ導いてくれる。
導き手はドラムと鍵盤だ。流暢なMCや軽妙なやりとりの後なのでいっそう信頼が高まっている。
急に曲の拍子が変わるのは苦手だけど、でもこの曲に限って言えば気持ちがよかった。

残響は影のような役割をする。姿のない身体を追いかけて消える、それ自身も自らを追いかけながら減衰し、自由も制約もない凪いだ世界へと去る。耳に残った余韻はぼく自身の記憶へ統合される。
即座に、つぶさに再生する。曲が終わってもずっと遠くでシンセパットから和音が鳴っているような気がしている。
深く、深く息を吐いて吸って、また吐いた。

珍しく、五十鈴は最後には完全にうなだれていた。
なぜかは言うまでもない。このバンドの生演奏を体感することは、世のベーシスト・ギタリストにとってどれほどの衝撃だろう。放っておいてあげよう。ぼくはというと、ショックを受けるもなにも、技術や経験や表現力の差だったらずっと痛感している。遠く離れすぎた実力の持ち主に対しては、目標にするとか嫉妬する以前に、不可解によって思考停止してしまって良くない。

「すげー良かったな」
「また聴きたい」
「えっもう?」

かろうじて軽口は叩けた。転換中、aqua ballの物販コーナーは長蛇の列になっていてふたたび言葉を失ったりもした。

印象的な言葉は詞でなくても記憶に残る。ぼくたちは、ステージの上から淡く舞い降りた物語を受け取り、魔法が作用しているその束の間に、思いがけない冒険心やときめきを包み隠さず語ることがある。
あのとき重力から解き放たれた旅人のような弟の呟きをよく憶えている。

〈冥王星まで案内だって。宇宙じゃ息なんてできないのに〉

 

【Drive to Pluto】

目眩の予感。
弟が暗転直前に飲み物を手渡してくれて、なんとか一息ついた。気付いたら一瞬で前後不覚に時間が飛んでいてびっくりした。ぼくという人間は未来にも過去にも存在しないはずだ。目眩がしてごく短い間思考や意識がはたらかなかった、というだけなんだけれど、超常体験(タイムスリップ)したみたいに思えた。
aqua ballの残響に陶酔しながらぼんやりとセッティングを見守る。ひとつ前のaqua ballとの差異がすでに楽しい。あとなんかヤベェ音が聴こえる。

波音。
フロアのどこからか、ひゅっと息を呑んだり、声にならない悲鳴のようなものが響く寸前で消えた。観客たちが、“彼ら”に必要な静寂のために声を押し殺しているのがわかった。他者の感動や動揺に対して感動したり動揺するひともいるので、空間を支配するのは直線的な驚きではなく、時間差のあるいびつな波紋になる。
彼らの1stアルバムは199【ノートの文字列が黒く潰される。そばに「わからない」と筆記される】とにかくDrive to Plutoは一部の音楽ファンの間で伝説的に語られる存在。……らしい、という伝聞。

「こんばんは、Drive to Plutoです。ようこそ、冥王星へ」

初期の音源はたまたま聴いたことがあった。確かジャンルはシューゲイズ寄りで、昔からハードロックに傾倒していたぼくは彼らの熱心なリスナーとは言えない。でも惹かれるものがあったから耳が捉えたのだろう。一時期ふとその存在に気付いた。気付いたというほど色濃い記憶もない、ただほんの少し知っていただけ。

ボーカルが歌わない異端のバンド。詞はあるのだ。だがフロントマンである彼の声は、録音されていてもボリュームがゼロで聴こえない。ぼくが知るのはそれだけだ。調べようはあったかもしれないが、彼らに関してそれ以上に詮索する気は起きなかった。
どうして声の聴こえないつくりにするのか、疑問に似た興味はあった。世界観と呼ぶべきか、なにかしらの意図があるんだろうと感じる。
川だ。目の前に大きな河川が広がっていて、橋もなく、舟もあいにく通りかからず、平行に歩き続けて、そのまま近づいてみる機を逸していた。今夜までは。
聴く機会を逃した音楽は遠く車窓を流れた景色のように数限りない。昨日や今日はカレンダーに載らない、ほんとに特別な日かもしれない。

小柄なフロントマンがハンドサインをもって準備完了を合図する。時間の流れが緩慢になる。ゆっくりとゆっくりと腕が動く。
ぼくは それを ぼんやりと 見た。

ライブが始まったばかりのしばらくの間は、まだ雑念が渦巻いていてあれこれと思考を巡らせる余裕がある。二曲目の『Trap, trap』にはうっすら聴き覚えがあった。
三曲目まで終えて再びベーシストが口を開く。

「改めてこんばんは、Drive to Plutoです。僕たちはここのファイネッジレコーズで、まあ東京でやってるんですが、本当は冥王星から来てまして、このなかで冥王星から来たよ〜って人はいますか」

彼らは適切な緊張を保ち、適度に肩の力を抜いていた。
フロアの小さな笑い、わずかな動揺、期待、興奮の細波をよそに、年越し蕎麦に乗せる天ぷらの話をしている。急にお腹が減ってきた。もっと食べておくんだった、と死に際の後悔みたいな感情が脳裏を掠める。食べ物の話題で食欲を喚起されたというより、この二日で消費しているエネルギーがたぶんものすごいのだ。

この時点では、なんだか大人しそうなひとたちだし(冗談か本気か分からない語り口は意図が掴みづらくてぼくとしては不得手だったが)風変わりだけど穏やかなバンドなんだなと思っていた。とんでもない話だ。サウンドチェックで鳴らしていた異音をもう忘れたのか。

絶対もっと多い人数で演奏する曲じゃないかと思う、三人編成とは思えない音の層。
次の曲も瓦解しそうになりながら持ち直して、終わりそうになりながらも続く。
ぼくの記憶している限りの──記録を書きながら1stアルバムについて調べている──そう、『A Hole New World』の頃の彼らの音楽性とはもう違うのかもしれないな、と思った。
G.U.L.やGreatPainterの時も内臓がひっくり返り目を回した不肖ぼくだが、好きとかそうじゃないとかではなく、味わうのに時間が要るし、その時間こそが重要である、そういうタイプの音楽な気がした。ジャンル名で大雑把に括られる彼らのそれぞれの音楽性を比較してみたらたのしそうだ。

再び彼らの姿が浮かび上がる。ギタボの声はこどもみたいだ。
途切れ途切れで、所在なくて、ことばの並びもめちゃくちゃなMC。だけど言っていることはぼくにはよくわかった。もちろんぜんぶじゃないけれど、理解した、ある程度共感したと思う。

なんと言ったらいいか──祝祭を喜べない環境や気分の人間を置きざりにしていかない、「捨て猫に傘」な感じ。かといって決して親切ではないけど──テレビでみんながお祭り騒ぎをしていても、すこしも同調できずに眺めている、いつかの自分。過剰か不足のどちらかしかない、みんなが繋がる時代。行くに行けず、帰るに帰れず、ひとりでギターを抱えていた年の瀬。〈非接続〉時代の記憶の心象風景で、ぼく自身の涙を拭ってやった。
気がした。一瞬の幻想だった。

「外」の世界に思いを馳せた。いつもと違うのは、言い知れない別の感情が湧き上がっている最中にそれが想像できたことだ。
この世の最高と最低が共存する。“思い浮かべてしまったせいで”このフェスの記憶に関連づいて記憶をさかのぼった未来のぼくが、今この“過去”を探し当てて俯瞰している。針を差し込まれるような頭痛の後、背筋がぞっとした。
【別日追記:ライブの現場ではたまにこうなる。フラストレーションが溜まっているとなりやすい。映画の予告みたいに扇情的な書き方をすれば、予知に似た体験かもしれない。だけど未来の自分のためにきちんと書いておく。ぼくは生まれつき頭がヘンらしいし、これはただの妄想の産物だ。

“そこ”からすぐにいつものように戻ってくる。ステージに立つかれらに、観客たちが好きに野次を投げている。
安心していい。ここは〈接続〉されている。

ぼくは、これが正解だと示してくれるスターよりも、泥まみれになりながら自分なりの答えを歌うアウトサイダーが好きだ。
彼らの音楽に説教めいた言葉はない(実際に声は聴こえないし)、けれど、物わかりのいい聴き手に甘んじるなと言われているみたいだった。
ぜんぶ受容してぜんぶ肯定するのはとても楽だ、だって現にすばらしい奥行きの世界観と技巧に支持された音楽だから。その一方で、無音のボーカルに、歌詞に、過密な音に、こちらもなにか叫び返すべきだ、とも感じる。
ぼくの内部の衝動を呼び起こすような力を持っている。根源を辿ればそれは〈怒り〉や〈憤り〉かもしれなかった。でも言葉にはならない。
最後にもさっきと同じことを思った。
やっぱり時間が要る。

「またどこかでお会いしましょう」

そして時間というのはいつも足りない。でも彼らがそう言うならまたどこかで会えるのかもと思った。
衝撃の体験を与えておきながら、ごくふつうの、なんの変哲もない挨拶をして去っていく。ただ演るべきライブをした、かれらのなかには無論、ぼくにはわからないなにかしらの感情や思考があるとしても、認識のズレのように説明しがたい“なにか”が、ステージと客席とのあいだで違っていた。
フロアはなんとも言えない空気感に染まっている。なにが違っていたのだろう。

ぶつぶつと独り言がきこえる。
すごいな、歌詞は聴こえんかったけど、ギターのひと。ベースもドラムもやけどさ。よく三人だけでこんな音。
貴重だったな、と五十鈴がはしゃいでいる様子をみていると、弟が子どもの頃を思い出す。

子どもの頃。いや、いや待て。一時停止、巻き戻し。汗を拭いながら、頭になにかがひっかかっている。ちがうそこじゃない、もっと巻き戻し、巻き戻し、再生。
Drive to Plutoだ。メンバーの年齢はうろ覚えだが、どう見ても若すぎる。なぜずっと気付かなかっ黒塗りの跡がノートに走る】頭のどこかで分かってはいても不思議に思わなかった。昨日も、今日の開場前にも、こんなことがあったような。
忘れた。さっきみたいに時間の流れがへんになるのは、いつも頭が痛くなったときに知覚する世界が歪むようなやつだ。他人の見た目まで変わるのは初めてだったけど。

知っていたのは一曲だけだったし、もっと聴き込んでいればよかったなあと思う。これがもし小説や映画なら点と点は線で結ばれるものだが、そうはならない。ライブは日常以上に他人との一体感があるけれど、演者と観客は偶然同じ地平に立っただけで、それだけなんだけど、十分奇跡のような気もする。
美術館で向かい合わせになった絵画に描かれた人物がお互いを鑑賞するミニドラマを思い出した。かれらからぼくのことは見えていないからこの連想は半分的外れだ。またなにかを見過ごしているかもしれないけど、彼らのライブに立ち会えたのだからもうそれでいい。

星座にならない星々として、誰しもがまばらに存在し、運命ではなく事実関係と周期(スケジュール)によって近づいたり遠く輝いて見えたりする。
そしてみんなそうであるように、ぼくも都合の良いように物事を捉える。
時に巡り合う信じられない邂逅にもきちんと事情がある。ぼくは魔法がかかったような心地で、なにかすごいことが起きるんじゃないかと期待して、夢をみていたのだろう。

叶うなら、もう一度姿を見せてくれないかなと思った。もちろん、もう異色のバンドは舞台から姿を消している。
彼らは昨日から続く今日を過ぎ、継ぎ目のない明日にむかう。ぼくらも現在進行形でそのはずだが、どうしてかまだ“それ”を知らない気がする。場にぽっかりと穴があく。ひたすらに胸の内でさざめく音の余韻を残して。

 

【Bear’s】

気分は「宇宙船のカプセルが海に着水して無事地球に帰還した感じ」だ。そんな状況を経験したことはないけれど、映画とかでみたことある、例えるならそんなだ。
で、その例えにのっとるなら、“無事”と表現するのはまだ早い。

「こんばんは、Bear’sです。お昼に食べたそばにはししとうがのってました。おいしかったです。」

絶対生きて帰って年越しそばを食うと決意する。
大トリの登場だ。いい年したぼくよりも、弟や、周囲の十代・二十代と思われる若者たちがはしゃいでいるのが伝わってきた。小西さんなんかだいぶ気分が上がっているようだった(「だってBear’sっすよ!?」)

「これだけ個性豊か…その一言ではおさまらないようなすばらしいバンドが集まるフェスに呼んでいただけてとても光栄に思います。
今日この場でみんなと一緒に来年を迎えることができて本当に嬉しいです。
よろしくお願いします!」

現代Jポップシーンの顔。Bear’sの名と音楽を今や聴かない日はない。音楽雑誌の表紙を飾り、うちの近所の薬局でも流れてる。だからこそ、ぼくはよく知らない。知りすぎることがないように避けていた気さえする(犬がいっぱいいるCDは弟がジャケ買いしたのを借りた、曲も良かった)。ファストに聴きすぎることで音楽を薄っぺらくしたくなかったのもあるし、多分に知識があったとしても自分自身の本心がついていけるか不安だった。

しかし、謎めいた宇宙の物語に放り出されたままでフェスは終わらない。ぼくらの光る星へ帰っておいでとばかりに、空想のなかに動物たちが現れて、定員五百人の箱舟を帰路に案内する。年を跨いで厄を落とした新しい地球に着地させるつもりだ。

「格好いいベース使っとるよなー、色がいいな〜〜」

隣から昨日今日で何度目かわからない台詞が聞こえてきて、なんやこいつと思う。
でもたしかにドラムセットをはじめとした楽器の、飴がかかったような艶々した黄色や茶色の取り合わせが熊と蜂蜜のようだ。
彼らのいいところは雰囲気が明るかったり見た目にインパクトがある点だけじゃない。曲は底抜けの明るさを感じつつもバンド演奏らしく有機的だし、聴きやすいだけで終わらない創意工夫があるように感じる。

Bear’s のSNSではメンバーの自撮りやプロモ、MVなどが観られる。若者たちにとって身近な存在だ。ぼくが鼻垂れ小僧のころは、プロミュージシャンはまったく別の世界に生きているものだと思っていた。遠い憧れ。テレビやラジオ、雑誌でも、ライブにおいてもそういう魅せ方がなされたし、それは人が伝説を語るために普遍的に必要とするものだと思う。
では、それらと違って親しみやすいBear’sを友達みたいな存在に感じるかというと、それも違和感があった。
彼らは多彩な衣装でカメラの前に現れる。若者らしい親しげなやわらかい表情。一方で、あくまでも演者であることを主張していると思う。そういう彼らが、ステージの上では、キャラクターとして確立された役割の殻からも解放されて、ほんとうの自分自身を降り立たせるようにも見えた。そうであってほしいとぼくが願っているだけかもしれないが。

MC中は、バンドへの思いを熱く語るボーカルの後方で、ドラムスの女性がドラムスティックではやしたて、からかうようなポーズをとることで笑いをさらった。
ぽつりとぎこちなく発言する言葉少ななベーシストに対して、謎のほほえみと見守りの時間が発生したりもした。ベースのイケッチはシャイであんまり喋らないんだよ、へえ、売れっ子なのに顔もみせないしぜんぜん喋らないんだなあ。と、周囲のひそひそ声から情報がもたらされる。
ぼくがあれこれ消極的な考えを巡らせて勝手に深刻になっていても彼らがこういう調子でいてくれるのは、なるほど、ほんとに救いだと思った。

後半は現実への帰還を全員が予感しながら、まだ終わりたくないとばかりにフロアの歓声が一段と大きくなった。願いをもつ声には説得力がある。

低音が際立つアンサンブルを率いながら、突き抜けるようなボーカルの歌声がまっすぐこっちに向かってくる。観客を煽りながらの歌唱に熱が帯びると、ぼくらより前列にいた若者が涙声で“   ”と叫んでいた。叫びにはなっていなかったかもしれない。ぼく自身の心を聴いた、ただの幻聴かもしれない。その後に、Bear’sのタオルで顔を覆っていた。大ファンなんだろうな。大好きなんだろうな。汗と涙でぐっしょりだった。あんなのを見ると、目の奥がツンとする。

涙腺が記憶を呼びおこした。

“そういう音楽に出逢ったら”……脳裏に声が蘇る。昔、おばあちゃんと話したことを思い出した。カラオケ喫茶を営んで、お客の歌声と笑声を五十年聴きつづけて、いまも毎日店のカウンターに立っている彼女は流行曲に敏感で、テレビやラジオで流れる若者の音楽にも明るい。たぶんBear’sの曲も知っている。
いつだったか自分自身の好きな音楽について語り合った時、彼女はそれを「時計みたいなもの」と形容したのだった。
良いポップスは、誰でも波に乗せてくれる。流行という波は、大なり小なり影響は違えど、どんな人間にも、乗らないかと一度は誘う。
少しでも一緒に歌えば、ちょっとくちずさめば、あるいは記憶していれば、それで充分だと微笑む。大衆的であることの利点は寛大なことだ。支持者の母数が多ければ多いほど好き度はグラデーション化する。
同じ時代に生きること、あるいは生きたことを証明できる。時代を超える名曲、なんてよく聞く表現だが、実際には「そこに居た、その音楽があった」それだけが人々には残る。つよく残る。記憶に刻まれ続けるのだと。
刻まれ続ける、時計みたいなもの。
時計、時間。

はっとした。ぼく自身とBear’sくらいの若者たちの聴いてきた音楽は違うだろうに、聴こえる音楽がなぜかあの頃のポップミュージックと繋がっている、歓喜する人びとの姿が重なる。みんなそれぞれ別の人生を歩んでいるはずなのに、ここではひとつの矢印みたいになる。時代がどう変わっても揺るがない、人間同士の普遍が奏でられていた。五年、十年、十五年経っても彼らの音楽は“良いもの”であり続けるだろうな、と思った。

カウントダウン。
10、9、8、7、6。

みんなで飛ぶよ、あわせて、というように、バンドマスターによる腕の動きや目配せがフロアにとんでくる。フロアの後方に対しても手を振ってくれているらしい。なにが起きているかよく見えないが最前の熱気と興奮は伝わってきた。

5。
強力なツインバスドラムの打音が、ひとつずつ秒を数える。

4。
拳を突き上げる皆の叫びが次第に大きくなってゆく。

3。
誰かの悲鳴のような歓声のようなものが響く。

2。
クマの被り物をしたひともジャンプするんだろうか。妙に冷静な頭で考える。

1。
なにがなんだかわからないうちに、自分の感情の波が頭上を追い越しているのを、ぼくは見た。

幽体離脱みたいな感覚だろうか。
たぶんぼくは限界だったのだ。それでも倒れはしなかったようだから自分を褒めたい。

 

【Day.2 終演後】

そういえば冬のフェスに全通したのは久しぶりだなと、雪がちらつく空を見て思う。歩道に這い出した観客たちが方々に散ってゆく。ライブが終わると、命からがら、という気分になる。
エントランス前、スタンド花の近くで、なにかきれいな一輪挿しを手にしたひとたちが、魔境からそれぞれの生活時間に帰ってゆく。

「ハイ、志樹香サンのぶん!」

道の脇で弟を待ち突っ立っていたぼくに花を手渡してくれたのは小西さんだった。
東さんはアレンジをしてもらったらしく、胸元に……なんていうのか、コサージュ? みたいに花を飾っていた。
控えめに笑う姿が紳士的で格好良いなと思ったが、結局ぼくはぶらりと下げた片手に花を握ったまま、渋谷アルブレヒトを離れた。

信じられないほど冷たい空気だ。
涙と汗が一気に凍るみたいだった。

冷たさが痛みを覆う。
スイさんがバッグの隙間から抜き出して、渡してくれた湿布。
強く固定して握り続けていたせいか、手首の筋にわずかな違和感があった。

「アドレナリンが出とる間は痛みを感じづらいでね」
「用意周到すね」
「万が一の時にと思って。手は大事にしやあね」

東京にいる知人に会う予定があるというので、スイさんはそのまま手を振って渋谷の人混みに消える。未練のないひとだ。ものすごい方向音痴だそうだが、本人は迷いなく歩き去っていった。

「明けましておめでとうございます〜。ゴーヒュの円盤、ゲットできました?」
“未来のジュンさんに布教する用”ですよね。ぬかりなく。というか全組よかったので入手できるものはすべて入手しました。新年会をお楽しみに」
「五十鈴サンと志樹香サンも、またお会いしましょーねぇ。てゆうかせっかくなんでこれから初日の出まで語りましょ〜! え無理? じゃあ朝になったら!!」

携帯のテレビ画面越しにドラム担当だという一家と通話する東さんたち。
偶然出会ったひとたちとの会話はひとまず五十鈴に任せて、ぼくは少し離れてポケットに手を突っ込んでいた。思考がおっつかない。この時を逃したら消えてしまう頭のなかの音に、独りで思いを巡らせていたい。

このフェスは、決してメジャーなひとたちばかりが集結したわけではない。でも、間違いなく素晴らしいミュージシャンばかりだった。業界のひとがもしこのフェスを観に来ていたなら、全員を全国的全世界的に広めてほしい、と願った。
いや、すでに世界で活躍しているアーティストたちも居た。ぼくたちが知らなかっただけだ。

このフェスには打ちのめされた。完敗だった。つまり勝った。いかに自分が葦の髄から天井を覗いていた状態だったのか痛感して、よい刺激を受けた身体がまだ感電している最中だ。

「兄貴お待たせ。どうする、ラーメンでも食う?」
「もう寝る」
「言うと思ったわ。あーいいもん聴いたな。そういえばおれ昨日から考えとったんやけど……」

話の続きはよく憶えていない。五十鈴も返事がなくても喋り続けているし、ぼくが聞いていようといまいとどうでもよさそうだった。
世界は広大だ。
うん、打ちのめされた。良かった。
音を浴びすぎてボロボロで、宿に戻ったらまた泥のように眠るだろう。そうして目が覚めたら、その浴びた音が身体じゅうを塗装したようにコーティングしていて、つやつやと輝いていることがわかる。
日を経るごとにそのつやつやは褪せて、欠けてゆくだろう。日常の、ケの色がひと塗りずつ、上書きされてゆくから。
しかし、またそれを剥ぎ取られるとき、こころが前駆する瞬間、ゆっくりと脱皮する生物のように新しい自分が生き始めるのを、きっと体感するのだ。その時に、つよく生きていける力をもらったんだと思える、ぼくは。

新しいものごとの始まり。あの場に居た誰のことも、未来がどうなるのかもまだなんにも知らないくせに。
だけど、なんか面白いことが起きそうな、腹の底がくすぐったくてたまらないほどばかげた予感で笑ってしまう。

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もうすこしだけつづきます