朝飯を調達したところで、わたしがどこに居るべき人間かはわからない。近所の公園、駅のベンチ、もう少し大きな駅のベンチ、喫茶店、ファミレスをはしごすることで一日をやり過ごした。わたしの屍を見に戻るべきだろうか。面白いことはなにもない。わたしという人間は、人間としてよくやっている。わたしはだいぶこの身体に慣れたが、記憶が続く限りわたしでいなければならない〈社会性〉を思うと、この縦に長い生き物が悲しくなる。〈社会性〉が働いているから、本当はみすぼらしい鳥肌なのに繊維をぐるぐる身にまとい、集団の中に弱い個体が居ることを外敵に悟らせないようにしている。
ファミレスで皿に乗って出てきたパンを粉々にしてから、傾きかけた夕陽をいっぱいに浴びようと外へ出た。無数のわたしたちがこちらを見ている。わたしの目はあんなふうだったろうか。わたしの脚はあんなふうだったろうか。わたしの羽はあんなふうだったろうか。やはり確かめておかねばならない。わたしは自分が死んだことをまだ認めていない。でなければ、わたしが未だ人間ではなく鳩だという認識を持っているはずがない。
立派な人間について語るよりも立派な鳩について語るほうが単純明快だし気持ちがいい。わたしは公園のベンチに腰掛けた。飛び交う彼ら(わたしたちではない)を観ながら、わたしの持っていたケータイ電話でわたしの名前を検索する。目の前を通りかかった犬に連れられて歩く人間に、調べ方を尋ねた。音声検索は何よりも便利だ。キジバトもしくはヤマバト。動画で鳴き声も確認した。ホーホホッホホーホーホホッホホーホーホホッホホーホ、は確かにわたしの声だった。わたしはどちらの名も気に入ったので、キジヤマと名乗ることにした。
さっそく名前を使って寝床を確保しようとしたがうまくいかない。
わたしのケータイ電話が何度も振動しておそろしい。わたし自身は山地の生まれだ。元々市街地に生まれた仲間のことも風の噂に聞いたことがあるが、わたしたちは公園の彼らのような、あるいは人間ほどの大所帯で群れない。仲間のことは仲間のこと、わたしのことはわたしのことだ。ケータイ電話の震えは、わたしの仲間が呼んでいるしらせだというが、どうもブルブルしている間は手に取るのが躊躇われる。この手というのはよく見覚えがあるものの、いざ自分のものとなるといっこうに扱い慣れない。まだ羽のように素早く羽搏くことができないでいる。
羽がないのでめっぽう寒い。風のない高架下には群れができていた。ダンボールの巣のひとつに入れてもらう。巣の主は事情を聞くこともない。毛布が何枚も重ねられ、机の上に被さっていた。空間を暖める術だ。巣の主は廃棄されたコンビニ弁当だと言って、公園で人間がよく食べていたようなものを差し出した。あなた、この近くで捜索願いを出されていたひとじゃないの。名前は。そう訊かれたので、キジヤマと答える。そんな名前じゃなかったな。旦那さんと子どもがいるんでしょ。さらに訊かれるが、わたしはキジヤマだとしか答えられない。警察行きなよ。あなたを探してるひとが居るよ。わたしのような一介の鳩を探すような人間がいるものか。つがいの片割れは長いこと見ていない。卵が孵ったことは知っている。
巣材を運ぶ手伝いをする。本当は雄の仕事だが、わたしも巣の主も雄を引き連れていない。どちらかが巣を完成させ、卵がなくともよく立ったり座ったりして、巣を柔らかく居心地よくせねばならない。小枝があるとよかったが、あれは人間の皮膚をすぐに突き破ってしまう。巣の主と鳴き交わしながら、雄が来るのを待つ。誰も来ない。わたしたちの巣は簡素で慎ましい。よけいなものを重ね合わせて必要以上に時間をかけない。巣の主はじっとして動かない。卵があるのかと丸くなっている腹のあたりを見たがそれらしきものはない。
秋が深まっている。しだいに越冬のため交接の気運は低減する。夜明けを感じ取る。まだ空はいっぱいの闇のなかに星を湛えているが、少しずつ夜の端から光が滲むのをわたしは何度だって丸い眼で見ている。わたしたちは夜が明けたら巣に舞い戻り元気に鳴くものだ。かつての巣があった松の木のある庭はどうなっているだろう。体内時計通りに飛べないのは苦痛だ。
わたしは朝飯を探すと言い残し駅前の喫茶店に立ち寄る。パンを突き散らかして出た。わたしの腕に邪魔くさく巻かれている枷はなんでもできる時計で、これがたまに光って店でもどこでも入ったり出たり自由にできる。警察というところに寄ってみようかと考える。わたしの屍体はもうそろそろこの世のどこからも消え去ったかもしれない。忘れねばならないのかもしれない。忘れねばならないような記憶は既に忘れているのではないか。だとしても変わり果てたひと鳴きを我が身に捧げる。夜にはダンボールの巣へ餌を持ち帰るつもりだ。わたしは立派な人間、キジヤマ。