灯台 - 1/92

 微動は記録される。記憶できなくとも。

 架空の兄と真珠の子

 夜に飛翔して自由になるには、こうして目を閉じるだけ。

 ……さて、これで私は眠ってしまった。

 意識だけが存在から離脱し、来たことのない場所に飛ばされる。これを眠りとは呼べないだろうことは分かっている。翼のある魚だって目を閉じて時間の河を泳ぐが、眠りはしないように。私も青く澄んだ空想の世界へ旅立つだけなのだ。

 願い泳ぎ、祈り羽ばたき、そして、キミに出会う。

 キミが誰”なのかはあえて問うまい。私はキミを〈真珠の子〉と呼ぶ。

 何が起きたかわからないのだろう。戸惑いはもっともだ。突然、見ず知らずの土地にやってきたのだから。

 煙たい? 失礼。光る煙に巻かれていないと、周囲が何も見えないからね。

 私の責務は、時を渡って人間達の心に触れることだ。目に見えないものを操って、与えたり、ほんの少しだけ持ち去ったりする。でも今日は仕事をしに来たわけではない。だから悩んでいるところだ。キミの心の奥から表層に滲み出て在る不安に、触れないままで良いのかと。何のことかって。そうだね。キミと話ができるのは、もしかしたらこれが最初で最後かもしれない。だからキミをたのしませるような話をしよう。ただ聴いてくれるだけでいい。気を落ちつけるために、音楽を聴いてリラックスするようなものだ。そうすれば、私の仕事の意味がわかる。

 まずは目を閉じて。ほら、波の音が聞こえてくるよ。

 冷えた夜の、不気味な潮の匂い…………私の手を取り、こちらへ来て。

 キミは、しっとりと柔らかな砂を踏む。海は闇に沈みきり、どこか遠い島に棲む名も知らぬ獣の唸り声が轟いてくるようだ。靄の向こうに突如聳え立つのは、白い石造の灯台だ。私はランタンを右手に、ウィスキーの小瓶と乾パンが入った麻袋を手首に巻きつけ、暗いらせん階段を上る。キミと私の慎重な足音だけが響く。胸ポケットから取り出した鍵で最上階の小部屋の扉を開ける。灯光のレンズはこの真上に設置されている。出窓から外が見渡せる。ただただ暗い。今夜、私たちは小さな月の点灯夫となり、眠れる〈弟妹達〉を乗せた記憶の船を探しだそう。彼らの夢が暗礁に乗り上げ、夜の怪物に飲み込まれる前に。

 慕わしい夜風。

 タバコの火。……光る煙に乗って、星や花の生きた幻想がキミの瞼の裏まで飛んで行くよ。

 静かなる星の輝き。

 眠いのかい。でも目を覚まさないで。まだ、ここに居て。……くだらないと笑い飛ばしてもいい。キミは聡いから。賢い人間は素直じゃない。夢の世界で得た喜びや楽しみを現実では胸の奥に隠す。大人と呼ばれる種類の人間は、大抵そうであろうとする。大人なのか子供なのか、そんなのわからないって? ならば、キミはキミとして、きっとこの夜に、この温度と湿度に親しんでくれるはずだ。

 どうぞ触れて確認して、古い安楽椅子だ。座ってくれ。……あんなに狭い入口だったのにどうしてこんなものを置けるのかって。では、〈真珠の子〉よ。キミはどうしてここに居るんだい。どこからやってきて、どうやってこの世に入ってきたの。安楽椅子も、キミも同じだ。ここに居るのは、ここに在るから。精神的な移動性を具え持っているからだ。説明がつかないと思うかもしれないが、そうとしか言いようがない。マインド・モビリティ。この言葉を覚えておくといい。

 私は、いくつか自分の好きなものをこの戸棚に仕舞って置いている。短編小説に、時”そのものを音楽にしたタイム・レコード、靴を磨くための黒のクリームと布。サドルソープ、シューキーパー。他の誰かが忘れていった小品、傘や合羽もある。いったいどれほど昔のものか分からない。ここでは、何かが滅びることは無いんだ。滅びないものは、生きてもいない。躍動しないという意味で。でも、確かに在る。

再び生き始めたら、ここから出て往くことだろう、二度と戻らない滅びの旅へ。

 ここがどんな場所か、想像できたかな。

 未来の話も心躍るだろうけれど、こんな夜は昔話をするのがいい。灯台の光がのっぺらぼうみたいな海を照らす間、私が出会った、かけがえのない〈弟妹達〉との記憶を語ることにしよう。

 さあ、灯光の準備ができた。目を開けて。夜の底から浮かび上がる記憶の船の姿が見えるだろうか。