中空中継 - 2/2

『中空中継』あとがき・付録

観察するとは別の見方で、あるいは観ていることの彼方へ

〈おことわり〉

『中空中継』(以下、本書)は実在の祭り、自治体や運営団体ほかどのような組織、人物とも関係ございません。また、存在しない区画を創作したり、現実にない情景を描写しています(たとえば、名古屋に大須は実在しますが大須地下街というエリアは存在しません)。観光や旅行、探検、道案内等の際、本書の内容は参考にしないでください。同作者の短編「ポストヤドカリプス」の内容と僅かに繋がっています(本書単独でも楽しむことができます)。本書はいわゆるコピー本のため、耐久性への不安や作りの甘い点が見受けられます。今後も作品としての質の向上に努めてまいります。何卒ご了承ください。本書を新装・改訂する場合は告知をいたします。しかし、それは一度完成したコピー本版を残念なものだと自己表明するようなものではないか、とも考えてしまい、まだ計画途上です。気になる方はたまにリットリンクやホームページをチェックしてみてください。

〈あとがき〉

 本書は、中部地方、とりわけ東海地方の地域文化に触れつつ、登場人物たちの無意識のうちに根ざした幻想(と、そこにうまれた物語の人格)に焦点を当てるファンタジーだ。以下は、著者の力不足により展開や状況が分かりづらくなっている本書の、ごく簡便な解説だ。読解の一助もしくは読書の楽しさ向上に繋がれば幸いに思う。

とにもかくにも、分かりづらさの根源を〈P〉と呼ぶべきか。〈P〉はPersonのPだ。PointのPでもあるかもしれない。点Pは何をそんなに動き回っているのかというくらい動くものだし、本書の語り手としてたったいま名付けられた便宜上〈P〉も、あちこちに出没している。〈P〉は、本書に登場するすべての登場人物の時間軸やら行動を支配して操作できるようである。少なくとも冒頭で〈P〉はそう述べる。しかし、鳥の目線から見れば、〈P〉がそのような「神格」でないことは明らかだ。登場人物すべての意識にアクセスする存在、というと奇異に感じるが、ようは架空の世界であれ現実の世界であれ関係なく、特定のひとつの社会的現実と集団意識の在処と言えるものだ。つまり〈P〉は、

・三次元的にして場所的な性質を持つ位相多様体

・立方体を覆う空間充填曲線的な身体の持ち主

みたいに説明できそうな気がする。別の表現も試してみよう。

これは己の記憶と他者の記憶を、夢の幽冥の中に対峙させる試みだ。そのカオスの記憶が醸成する時空間の延伸上に生まれて生き、描かれる道程と情景は、誰の記憶と呼べるのか。自己─他者、事実─虚構、現実─夢、それらの狭間に居る人びとの記憶を空想する。それらを中継する特殊な脳みそ、認知感覚をもつものが、意識の園を渡り歩き、普遍のフィールドを拡げ、虚実の境界を曖昧にする。そして接続と同期が完了したなら、彼らは〈P〉をとおして共通のイメージを共有しうるだろうか? 〈P〉を認識するだろうか。そのとき、〈P〉を含めた〈彼ら〉はリアルな存在となるだろうか。そうでなければ「無い現実」としか言いようのない世界なのだろうか(もちろん「それはそう」だが、物語と現実が相互に影響を及ぼす、かような現代の事実があるにもかかわらず、創作世界に実体がまるで無いとは言い切れないのではないか。バーチャルな存在であること、虚実の狭間に在ることこそをアイデンティティとした表現者が台頭し、すでにかつてのSFは現実世界の構成要素となっている。悲観や感傷を負うことは本稿の主旨ではない。著者は、接続と切断、持続と断絶とが明滅し、点滅し繰り返される世界間の時空間分割を自らすすんで凝視する。地形変化でくっついたり離れたりする大陸の高速再現映像を好むようなものかもしれない。たとえば舞台に降りる幕。幕引きによって感じられる急速な引き潮の感覚、繋がった世界が離れていく感覚が忘れがたい。物語を物語と認識する登場人物も、物語をひとつの現実と認識する役者も、この幕の向こう側に対して何かを思うのか。それが本作の思考実験的概要だ)。

物語は現実になりうるか。わたしは、光は最後まで光、影は最後まで影だと思う。昼夜のように回転はしても存在の質は変わらない。そうまでして「現実」にこだわる意味はないと思う。でももし世界の構造に直感的に気付きながら、半永久的な息苦しさを感じ続けている登場人物が居たらと考えると、そういう人物の話を書かずにいられない。救いたいわけではない。アイコンタクトしたい、挨拶や握手をしてみたい、そんな必要も義務もないができたら嬉しい。できなくてもいい。ちょっと姿がみえたらいい。でも実際にそんなことが起こってはいけないと強く念じてもいる。それは、わたしは描く側であり描かれる側には行けない、行ってはいけないという無意識の抑圧のようで、なんとなく、同じ世界に居ながら受け容れない差別のような意味のなさを感じる。自分が描かれる側にいないなどとどうして思うのか。道を歩いていて、引かれた線になんとなく従ってしまうように(道路標識はすべて交通安全のためにあり遵守するべきだが、それに似た無意識のうちに他者や固定観念の誘導に従ってはいまいか)、どうやって無くせばいいかわからない「悪さ」。読み書きや感覚器を通して知る、決して快いものばかりではない感覚の起伏は、すべて自分にとって観察/考察/分析のためのシャーレに置くべき必要なものだ。

仮に「起きてはならないこと」が起きるならばこれは奇跡についての物語だ。そんな側面もないではない。宇宙の神秘と人間の生活営為が近く感じる瞬間のような喜びを、創作においても体感したい。一言でいえば「作者のエゴに登場人物を付き合わせている」のだが、この歪んだ時間軸の物語では、作者と語り手の共通点を重ねてその結末を暗示する。語り手だけが境目駅に取り残されて、遠のいてゆく。世界を構築した者の孤独。あたりまえかもしれないが、作者は蚊帳の外だ。そして、語り手たる〈P〉自身の困惑や窮状の訴えももっともだ。それは登場人物の全員(とここでは言ってしまう)が抱く、解決策のない漠然とした不安や恐怖でしかない。どうしようもない、「存在の核たるもの」というのは、基本的に解析はできてもそれ以上分解できないものであろうから。ほんとうに孤独なのは描かれないことだ。「意図的に描かないでおくという親切」は、描かない描写として言外に配慮されている。接続されない、つまり「無い」のと同義なのは、意識にさえ上らない事象だ。文化にしろ、地域にしろ、価値観にしろ、認識にしろ、世界を異にするもの同士、互いの盲点が重なる場所、昏いクレバスに落としてしまった真実は、誰にも見えず忘れられる。たった一度夢のなかで接続したチャンネルにわずかに映ったかもしれないが、その記憶も夢の世界へ忘れてきた。忘れたことも忘れている、無意識の水底に沈むすべて。掬ったつもりで見えていない。掬えていたのに解いた手。だからわたしは〈P〉を書いたつもりでいながら、今日も順調に〈P〉を忘れている。そして、わたしはまだわたしが書ききれないでいる物語の多くを、いつの日か完全に忘れて死ぬんだなと思っている。

 最後に、本書は著者の書きたいものと読者の読みたいもの(あるいは、ジャンルや作品説明などで著者の指し示したベクトルと、その形式が読者に対して何を読み取るべきかアフォードしたこと、そして読者自身が期待したこと)とがズレる可能性がある。たとえばバンドものの青春小説として本作を読むと、ことによっては大きな時間の損失になりかねない(そういう読み方を否定するわけではない、著者も本書で記述したバンドマンたちが東海地方らしい直情さと奔放さで音楽を奏でるのを空想するのが好きだ)。本書では、バンドものの作品の主人公たるバンドマンよりもその周辺の人物にスポットをあてている。徐々に語り手の視点はバンドマンの姿をじかに捉えてゆくが、それは本書のだいぶ後半になってからである。それまでは、虚実をまじえた中部地方の街と人びとのささやかな記録が続く。風景のシームレスさ、作中で名前も出てこない人物たちと、クローズアップされる人物とが区切りのない同じ世界で同じ解像度で存在していること、人と人の間や数多の通りが交差する町並みの微妙に異なる温度、進行する状況、なにかに果敢に取り組んでいる者たちの人知れなさ、架空と現実とが一体になった夢の中の世界、といったものを大事にしたつもりだ。先述のとおり、実在の名古屋や岐阜の地理や歴史については史実や事実と異なる説明が作中に見受けられる。不正確さも含めて夢の一部と受け取っていただけるとありがたい。それらについて描くことは非常に楽しかったが、娯楽を求める読み手のことは考えなかった。読者の間口は広くしたいものの、誤った宣伝の類もせぬよう今後の活動では気をつけるべきだと感じている。それでも本作からなにがしかを読み取ってくださった読者が居るならば、これ以上に嬉しいことはない。